About Us

会社概要

会社概要

会社名 猪原織物有限会社
所在地 〒715-0023 岡⼭県井原市⼤江町4918
創業 明治37年7月
設立 昭和30年6月
代表者 猪原 ⻯史
事業内容
  • インディゴ先染織物
  • デニム織物
  • 変わり織り二重織り先染め
設備
  • エアー織機 8台
  • レピア織機 6台
  • シャットル織機 26台
電話番号 0866-67-0985
FAX番号 0866-67-0976
URL https://itextile.jp/
E-Mail info@itextile.jp

生きる機織りの技
「備中小倉」

備中小倉の持つ丈夫な服地は、
江戸時代からの農家の副業として始まった
木綿の機織りと藍染めの手仕事の技が基本となった。

県境の山間の街、井原市は綿織物の古里として知られる。
その名を高めたのは明治時代からの「備中小倉」、そして戦後のジーンズである。服地として丈夫さが売り物だった小倉地は、霜降りの学生服、機関士の作業服などに使われ、井原はその主産地だった。江戸時代からの農家の副業として始まった木綿の機織り、藍染めの手仕事の技が基礎となった。

■創始者の意地

歩いても数分で広島県という小さな谷の中ほどにある「猪原織物」はあと4年で操業100年を迎える(2000年当時)。先代の廉史さんは「うちの工場がここまでやって来られたのは祖母、母のおかげ。がけっぷちでいつも女が支えたんですよ」とたくましかった2人を思い出す。
太平洋戦争のさ中、まだ小学生だった先代の廉史さんは家のすぐそばにあった工場の、ただならぬ雰囲気を感じていた。
「何言いよるんか!」。祖母のモトさんがやってきた男の人に声を荒げた。隣には母婦美さんもいた。10数台の織機がガッチャン、ガッチャンと大きな音を立てていた。
戦火が高まるにつれ、糸や燃料など物資が不足しがちになり繊維業界はどこも工場の再編が進んでいた。統制経済下でもうけがすくなくなった町工場に、地元の大手業者が買収を持ち掛けてきたのだ。
「女じゃいうて、なめられとうなかったんじゃろう」。当時、先代の廉史さんは既に、自転車に乗って糸を仕入に出かけ、出来上がった生糸を大八車で運ぶなど仕事を手伝っていた。この時は祖母のあまりの剣幕に圧倒された。1台の手織機から始め、育ててきた家業をそう簡単に人手に渡すものか、というモトさんの意地が伝わってきた。

■女性が原動力

猪原織物の歩みは戦争に翻弄された女性たちの歴史と言っていい。
日露戦争が始まった1904年(明治37年)。モトさんの夫隆三さんが戦地に赴く。男手を失った農家の家計を助けるため、嫁入り前に身に着けた機織りの技術が役立った。
モトさんは納屋に1台の織機を持ち込んで木綿の反物を織り上げ、行商に卸した。しっかりした手仕事は評判を呼び、確実に売れた。そのうち、知り合いの女性たちを雇い入れ、納屋の作業場が小さな工場になる。昭和に入るころには、手仕事では間に合わなくなり、電動の織り機を購入した。
地域でも小倉地の生産が増え、縫製加工するためにオーストラリアや南アフリカ、インドに輸出されるようになった。
順調だった猪原さんの家業は、太平洋戦争で暗転する。祖父の隆三さんは既に亡く、工場を支え続けた父、昇さんは南方で消息が途絶え、38歳で戦死。遺骨も戻らぬままだった。
男手を失うと休業に踏み切る同業者が多い中、婦美さんは従業員や家族にこう宣言した。「うちはもともと女が中心になって稼いできた。大丈夫。なんとかなる」。息子夫婦に仕事を譲っていたモトさんも、その元気に押されるように工場に戻ってきた。60半ばのモトさんがテキパキと指示し、配給される糸で織機を動かし続けた。婦美さんが仕入れや納品などの事務をこなした。
戦時下から戦後にかけ、「背水の陣」で臨んだ女性たちの意地が工場を持ちこたえさせる原動力となった。


■デニム生産へ

戦後、レーヨンやポリエステルなどの新素材の登場で井原の綿織物は一時衰退する。業者は綿糸ポリエステルに代え、大手繊維会社の下請け生産を始める工場が相次ぐ。小倉地にこだわった猪原織物も後を継いだ先代の廉史さんの決断で64年、下請けに転換する。
再び活気づくのは若者の間で流行し始めたジーンズのおかげである。60年代半ば、人気は沸騰し「作れば作るだけ売れる」時代が到来する。先代の廉史さんも下請け生産を続けながら、デニム生産をフル稼働させる。
厚手の綿繊維のデニムは、井原で培われた「備中小倉」の伝統が生きていた。75年からデニム一本に絞って織機を動かす先代の廉史さんは「祖母や母の時代から作っとったのと、よう似とる」と女手で切り盛りしたころの工場を思い起こす。
モトさんは83年、105歳の高齢で亡くなった。「景気はどう?」といつも工場を気にかけた婦美さんも、88歳で亡くなった。
その工場では今、数多くの織機が轟音を響かせている。色や素材を変えながらデニムを織り上げる。先代の廉史さんは、破棄処分寸前だった旧式の織機18台を購入し、それで織り始めた。
古き良き時代のジーンズを求める近年の「ビンテージ(年代もの)」ブームに合わせた戦略だ。生地は最新の織機のものより分厚く、重量感がある。現社長の竜史さんが営業担当として、東京や大阪のジーンズメーカーや商社に売り込む。
大手メーカーの進出や海外からの安い商品流入で、地域の織物の生産量はデニムの全盛期に比べると減少した。
厳しい時代ではあるが先代の廉史さんは「大量生産では大手にかなわん。うちだけの商品をつくる『オンリーワン』なら勝負できる」。祖母と母が守った旧式の織機のうなりを聞きながら「ひと味違う」ジーンズに生き残りをかけている。

(本文は2000年発行の中国新聞記事より引用)

井原の織物の100年

1901年(明治34年) 井原地区で備中小倉の生産が始まる
1904年~05年 日露戦争
1912年(大正元年) 備中小倉の輸出が始まる
1941年(昭和16年) 太平洋戦争始まる
1945年 終戦
1951年ごろ レーヨンやポリエステルなど化学繊維の織物生産始まる
1953年 井原町や大江村など10町村が合併し、井原市誕生
1965年ごろ 東京、大阪のジーンズ人気に着目、井原でデニムやジーンズ生産が始まる
1973年ごろ 井原のデニム生産の最盛期。ジーンズ生産も1500万本に。
1977年 井原市が職員の制服にジーンズを採用▷ジーンズの学生服を試作▷大阪大米国人講師の「ジーンズはレディのはくものではない」との発言でジーンズ論争へ
1984年 日本ジーンズメーカー協議会のベストジーニスト賞に郷ひろみさん、浅野ゆう子さんら
1989年(平成元年) 井原地域の織物業者らが東京で初の見本市
1993年 井笠地域の繊維産業が国の「集積活性化法」の適用を受ける
1995年ごろ ジーンズのビンテージブームが始まる
1999年1月 井原鉄道開業

井原の織物

約400年前、山陰地方から伝わった綿花栽培による織物生産が始まりとされ、
江戸時代には広島県東部の備後地方と共に、藍染め木綿の産地となった。

明治時代、国の産業保護政策による紡績所の建設や個人の織物工場設立が相次ぎ、昭和10年代には、輸出小倉地の六割を占めるまでに成長した。
備中織物構造改善工業組合によると、1970年代の最盛期には、321業者がデニムや合繊織物などを生産し、地域全体で年産約8000万平方メートルに達した。現在、井原地区で織物に携わるのは30業者にまで減った。ジーンズ用のデニムや企業の制服用の合繊織物など、年間約5500万平方メートルを生産している。